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代表・前田の超長〜いプロフィール(作成途中です)

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私・前田の長〜いプロフィール、というか物語?です。お暇なときにでも読んでいただければ嬉しいです。

まだまだ、書きかけ途中なのですが、載せちゃいます。随時、追加・修正を加えていきますので、ときどき覗いてみてくださいね。

3つの小学校へ通った、子供時代は転勤族。

父は転勤族でした。転校が2度。3つの小学校へ通いました。私は人見知りで気が小さいから、やっと仲のいい友達ができた土地を離れるのがすごく苦痛でした。

新しい町でも、地元っ子や幼馴染みっていうのが羨ましくて、自分はいつまでも「他所者」扱いされているようで、どうにも居心地が悪かったのを覚えています。

ガリ版と学級壁新聞

そんな中、記憶に残っているのは、放課後遅くまで遠足や林間学校のしおりをガリ版で刷ったり、学級新聞づくりに夢中になったり、という情景。

夕方、日が暮れる頃、廊下の壁に完成した学級新聞を貼って帰宅するんですが、翌朝学校へ行くと新聞の回りに人だかりができていた光景が、なんんかとっても気持ちよかったのを覚えてます。ただ、おもしろ半分で友だちをネタにしてたので、今思えば彼らからは恨まれたかもしれません。

ギターとの出会い

そんな学級新聞作りが好きな小学生は、中学生になるとギターに出会います。親に頼み込んでやっと買ってもらったのは、モーリス製の3万円のアコースティックギター(今でも持ってます)。小学生のときピアノを習っていた甲斐もあってか、音楽を理論的に解釈できるせいでしょうか、周りの友人よりも覚えも早かったような気もしますし、のめり込み方も凄かったような気がしてます。

オリジナル曲をラジカセで録音して、友人に配ってたのは当時、私くらいじゃないでしょうか。稚拙なテープを聞かされる側はたまったもんじゃありませんよね、ごめんなさい。

学校よりバンド

柏南高校へ進学。中学時代は自分でいうのもなんですが、成績は優秀なほう。授業、ロクに考えないでも理解できましたから。イヤミな奴ですね、我ながら。

でも、高校に入るとまったく勉強しなくなります。バンドの楽しさに目覚めます。ライブハウスでの演奏も初経験。3年になるころには、オリジナル曲をひっさげて聖地目黒で演奏。こうやって外へ同好の交流が広がっていくのがとてもエキサイティングでした。

演奏を続けたいのなら大学へ行け

で、卒業間近。勉強はまったくしてませんでしたから、上野の専門学校へ入学案内を聞きにいきました。まあせっかく進学するのなら何か役に立つものをということで、音響技術とか音響工学のコースへ行こうかな、と考えていました。

一緒に説明を受けていた人と帰りにエレベータに乗り合わせ、「演奏を続けたいのなら大学へ進め」となぜかアドバイスされます。うまく言えないんですがこのひと言が引き金になって一浪を決意。両親の好意に甘えて、遅い受験勉強を始めました。

ロック、ビール、バイクの大学時代

一年後、千葉商科大学になんとか引っ掛かりました。入学してみれば、なんてことはありません。髪を肩まで伸ばしてハードロックバンド三昧です。アルバイト代は楽器や音楽機材とバイクに全部つぎ込みました。服なんかほとんど気にしませんでしたから。

酒量と体重は増えました。お気に入りはビールとズブロッカ。Deep Purpleを絶対の師と仰ぎながら60年代、70年代のロックに傾倒していきます。MTR(マルチトラックレコーダ)を手に入れて、メモ帳感覚でデモを録れるのが楽しくて、ずいぶんテープの山を作りました。

あとは、この頃は本をずいぶん読みました。大学には立派な図書館があるので、読む本には不自由しなかったです。古典文学に傾倒しながら、哲学や心理学にも夢中になりました。

終電まで酒場で飛び込みセールスの日々

大学卒業後、音楽の道は諦めて有線放送のセールスに就職。本当は番組編成部への配属をこっそり夢見ていたのですが、編成への採用は音響技術系の人だけ。私のような文系のアマチュアミュージシャン崩れの行く先は営業部です。実はこの会社以外に受けていたのは全部、印刷会社。そして、3社の内定を全部蹴って有線のセールスへ。まあ若さですよね。

フタを開けてみれば、連日連夜、酒場への飛び込み営業の日々。毎日ほぼ終電で、ノルマ命の社風一色。月に一度は近隣の営業マンたちと泊り込みの集中セールスを繰り返しました。こんな毎日が根性なしの学卒には長続きするはずもなく、半年ほどで退社。

無職、自称ミュージシャン、相棒のてんかん

その後数ヶ月は、また音楽制作の毎日へ逆戻り。新たな音楽仲間とも出会い、一緒にデモテープを作ったりポートフォリオを作ったりしながら過ごします。今思えばただの現実逃避ですが、そのときはものすごく充実した日々に感じていたのを覚えています。ところがある日、録音中に相棒のシンガーがてんかんの発作を起こします。体を震わせながら口から泡を吹いて、舌を噛まないよう突っ込んだ私の指にかじりつく友人を救急車で搬送し、夕暮れの病院のベッドに付き添いながら、なぜか音楽制作の気力が抜けていったのを覚えています。

ガケ、ヤブ、ヒル、ヘビ、ハチ、蚊との闘い

翌年、社員2人の小さな測量会社に潜り込みました。資格もなにもありませんから、ただの助手です。月15万プラス現場手当だったかな。激安な給料でしたが、「地図を作る仕事、ああ、なんて知的でカッコいいんだろう」と、迷いはありませんでした。

ところが現実は大変です。小さな会社に回ってくる仕事は言葉通り「地図を作る」仕事。この意味分かります? 「作る」ということは、今現在地図は「無い」んです。つまり、未開の地へ入って測量するわけです。当然、ガケ、泥水、ヤブ、ヒル、ヘビ、ハチ、蚊との闘いです。蚊取り線香替わりにタバコが手離せません(今は止めましたが)。測量に必要な勉強もずいぶんしましたが、とにかく体が鍛えられました。

このあたりで私もそろそろ人並みに将来のことを考えてみたりもします。

はじめはもっと大きな測量会社に移りたいと思っていました。会社に内緒で何社かを回ってみましたが、無資格では相手にしてもらえません。
そうしているうちに、「資格、資格…」にこだわる土木業界に嫌気がさしてきます。

20代半ばで地方紙へ流れ就く

そんな中、偶然に千葉県柏市の地方紙に流れ就いたのは20代半ばでした。

夕方、帰宅途中のデパートのトイレでスーツに着替えて入社面接へ向かいました。測量会社の作業服が入った大きなバッグを担いで面接に現れた私を見て、怪訝そうな顔をされたのを覚えてます。この時、編集長が仕事に対する熱い思いを語ってくれたのが印象的でした。そんなの初めての経験でしたから。この後、社長と副社長宛に手紙を書いて入社にこぎつけました。

ここでは裸一貫からの叩き上げ社長と共同通信出身の編集長に徹底的に鍛えられました。先輩にも恵まれました。
社会人をすでに何年かやってきましたが、今までの経験が「お遊び」に思えるくらい刺激的な毎日です。地域の政・財界(?)を動かす人たちを間近に見て、接しながら、普通の20代では経験できないような体験にも恵まれました。芸者遊びに混ぜてもらったのなんか、その最たる例でしょうね。いい思い出です。

そんな中、舞い上がって分不相応な言動も知らず知らずのうちにあったのでしょう。営業先の小さなスポーツ用品店の親父にボロクソ言われた後、ひとり営業車の中に戻ったとたんに急に涙が止まらなくなって困ったことがありました。(怒り以外の)感情を自分でコントロールできなくなったのは初めてのことです。この頃になると、きっといろんな意味で疲れが溜まっていたのだと思います。

まあ、ここでは経済部記者、広告局、イベント事業等に従事しながら、泥臭いながら地域に根を張った仕事の仕方を体得しました。とくに、地道に広告を集める毎日の中、たくさんの地域の経営者たちと接する時間が持てたのは代え難い体験になりました。今の私の血肉です。

独立。オフィス・アリーナ始動

しかし、人間、馴れてくるとまた違う刺激が欲しくなるんですね。ちょうどDTP(パソコンなどデジタル機器でデザインや印刷物の完全版下を作成する技術)の黎明期で、自宅でMacを購入して独学していました。助言をくれる先輩経営者との人脈もできました。で、だんだん想いが強くなります。「俺ならできる…」。

わずかな貯金をはたいて、当時まだ高価なプリンタやソフトを揃えて独立することをを決意。結婚を3カ月後に控えた1997年12月に退社し、たいした仕事のアテも金もないまま、個人事業主としてスタート。広告デザインと編集の技術を活かして、オフィス・アリーナが始動しました。

独立といってもたいした仕事のアテなんかありませんから営業です。といっても、インターネットや求人誌での外注募集に片っ端から応募するだけ。でも、当時はそれだけでも同年代のサラリーマン以上のお金は割と容易に稼げました。プレッシャーは凄かったですけど。

そんな生活を続けているうちに、出版社や編集プロダクション、広告制作会社との取引や紹介が広がっていきます。現在まで長いお付き合いをいただいている取引先のほとんどは、その頃知り合った人たちです。長い不思議なありがたいご縁ですね。

日々好調。長男誕生。調子に乗って著者デビューも?

1999年頃は、直取引と業界の下請けが半々くらいという理想的な状態でした。長男の誕生という最高の出来事も。会社勤めと違っていつでも息子の顔を見ることができるこの生活スタイルが気に入っていました。

図解本ブームに乗って『簡単でわかりやすい図解表現の基本』(ぱる出版)を上梓したのもこの頃です。結果はパッとしませんでしたが…。

新規開拓を怠ったツケ。売上の4割が吹っ飛ぶ

2002年に大きな直取引先が倒れます。その時点で売上の4割近くを占めていましたから、目の前が真っ暗です。1社に売上の4割を依存なんて、どう考えても健康的な経営状態ではありません。でも、新規を開拓する苦労に目を瞑って、楽な方へ流され続けた結果がこれです。

人間って、こうやって壊れていくのかな…

さらに追い討ちをかけるように、取引先の担当者が突然退職したり、月の売上が1桁になったり、再就職を考えたり、朝ふとんから出られなくなったり、営業中に路上で急に泣き出したり、先行き不安で食事ができなくなったり、カラオケで突然声が出なくなったり、いろんなトラブルが続きます。その頃生まれたばかりの次男の寝顔を見ると、こんなこと言ってはいけないんですが、毎日を生きているのが辛くて…、「人間ってこうやって壊れていくのかな…」なんて人ごとのように思ってみたり…、鬱病になる人の気持ちが少しだけ分かったような気がします。

“経営”という言葉を本気で自覚し始める

それでもなんとか、仕事が仕事の空白を埋め、お客さんが顧客リストの空白を埋め、この仕事を続けてこれたのですから、巡り合わせというか、周りの人には本当に感謝です。

そんなこんなで、ビジネス書や実用書の書籍編集とブックデザイン。並行してイベント業界にも片足を突っ込みながらの広告や販売促進ツールの企画デザイン制作。アートディレクターとして、デザイナーとして、編集者として、ひたすら続けてきました。

やはり自分が壊れそうになるくらい大きな不安や悩み経験したからでしょうか、明らかに自分が変わりました。この頃から「経営」という言葉を本気で自覚し始め、勉強するようになりました。

「地域の事業者」と「地域の人たち」

冒頭にも書きましたが、子どもの頃いつも他所者だった私は、地元とか地域社会という言葉に心を惹かれます。我が子の成長を通して子供会や自治会といった地域との付き合いが増えたからでしょうか。かつての私と同じような「地域ともっと繋がりたい人」と「地域の人と繋がりたい事業者」を結びつけたいと思うようになりました。

そうなんですね。彼らを結びつけるには印刷物がいいキッカケになります。印刷物ならこの十数年たくさん作り続けてきました。しかし、私の場合、あくまでデザイナーや編集者といった「クリエイター」側からの関りです。

地域の人と事業者、双方がビジネスとしてメリットを享受する仕組みを作るには、マーケティングが欠かせません。そこで、小冊子やニュースレターやダイレクトメールなどを活用したダイレクトマーケティングを学びました。といっても独学です。書籍をいっぱい買い込んで何度も何度も読みました。正直、目からウロコでした。まったく知らない世界がそこにはありましたから。デザイナーのような「受注」ありきの仕事の仕方しか知らなかった自分には、「仕事」というものの概念が根本から変わりました。これが後に業態を大きくシフトさせるきっかけになります。

仕事の「やり方」と「あり方」。で、小冊子事業

2009年には、仕事の「あり方」を根本から見直しました。「デザインを受注する」仕事から、「地域の人と事業者を繋ぐこと」を仕事の「あり方」と定義。これを理念と定め、業態を大きくシフトする決断をします。

次は「やり方」です。

まず始めてみたのが「PR小冊子事業」。当時もう古いツールではありましたが「小冊子マーケティング」なんていうのが過去に流行ったこともあって、この分野を攻めてみようと専用のホームページを作ったり、豪華な二つ折り名刺を作ったり、まずは自ら実践だと意気込んで執筆、編集、デザインをすべて自分で行い「あなたの会社のファンを作るPR小冊子の作り方」なんていう小冊子を自費出版(?)したりしました。

ずいぶんお金をかけて意気込んでみましたが、小冊子を一冊作るとなると、編集からデザイン、印刷で数十万円という高額商品です。どこの誰だかわからない私ような人間のところにそう簡単にお客が集まるはずもありません。

典型的な下請け体質に焦る40代

デザイナーなんていう職種の人たちにはかなり当てはまると思うんですが、外部との交遊が全然ないんです。自分から仕事を作り出す習慣のない人、受注請負・下請専門の生活をしているとこうなっちゃうんですね。まさに自分がそれでした。愕然です。

こんな自分の置かれた状態を見るだけでも、いかに偏った仕事の「あり方」「やり方」を続けてきたのかが分かります。自分は職人でもスペシャリストでもありません。「地域の事業者と地域の人たちをつなぐ」ことを理念と定めた以上、広くバランスの取れた視点を持てるようにならなくてはいけません。当時すでに40代でしたし、さすがに焦りました。

異業種交流会で井の中の蛙を自覚

この頃からあちらこちらの異業種交流会にマメに通うようになりました。何より異業種の人たちと交流する場所になんて今まで(会社員時代を除いて)一度も参加したことがなかったです。初めての交流会(確か船橋でした)の会場へ赴くまでに緊張で何度もトイレに寄ったのを覚えています。

でも、慣れてくると楽しかったです。東京都、千葉県で開催の会場へはずいぶん足を運びました。初対面の人との名刺交換や会話にも慣れてくると、自分がいかに狭い世界だけで生きてきたのかがよく分かります。まさに井の中の蛙状態でした。

意気投合しただけ(?)で数十万円の仕事をいただいたり、会場の数百人の前でプレゼンさせてもらったり(ドキドキ)、何人かの人とは今でも仕事・プライベートそれぞれ楽しくお付き合いさせていただいています。

理念と地域に立ち戻る

交流会を通じて仕事や友人が増えていく毎日は確かに有意義で充実していたしのですが、途中からずっと違和感を感じていました。いつのまにかスタンスが「地域の事業者と地域の人たちをつなぐ」という理念からズレてきてたんですね。

正直なところ、こうした日常も捨てがたかったのですが、地に足が付いていない感は否めませんでした。やはりここは大きく理念に沿って修正する場面だと判断。地域に軸足を移す具体的な方策を考え始めました。

気がつけば地元にまともな交友関係なんか全然築けてません。この数年間オレは一体何をやってたんだ…と情けなくなりつつも、以前にたまたまライオンズクラブの機関紙の仕事を発注していただいたご縁のある地元の印刷会社の社長をランチに誘い出し、思い切って相談してみることに。

そして紹介されたのが、ライオンズクラブ、商工会議所の青年部、中小企業家同友会という3つの団体でした。

地域の経営者団体の情報量の少なさ

今なら、地域の経営者を中心とした団体が他にいくつもあるのは既知なのですが、なにせ会員制の団体というのはウェブでの情報発信をほとんど行なっていないし、あってもほとんど更新されていないので、部外者には実態がわからない。

当時は圧倒的に情報量が少なくて関わりのある人から聞く話がすべてでした。この一件を思い返しても「繋がり」ってとても大切なことだというのが分かります。

「経営」を真面目に勉強したい

先の社長に教えてもらった3団体、それぞれ存在主旨が異なります。少ない情報量から自分なりに色々考えた結果、経営者の勉強会(社長の学校)である中小企業家同友会に強く興味を持ちました。

この頃は、地域に足を置きたいというのもそうですが、なにより今後ずっと仕事を続けていくにあたって「生きた経営」というものをきちんと学びたいという気持ちがとても強くなっていたからです。

その旨を伝えると、話はトントンと進み、同会の会員である同じ地域の印刷会社を経営する社長と一緒に、一度ゲストとして例会に参加してみよう、ということになりました。

 

(以下、創意作成中。まだまだ続きます。随時、追加していきますので、またご覧いただければ幸いです)

 

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